団の歩み

「ジプシー楽団」 ●大萱真紀人

 我々にとっての最も重要な活動は、週一回の練習です。
 私が理事長に就任して8年余り、いつも頭にあるのは、専用とはいかないまでもそれに近い練習場が欲しいということです。
 練習場の歴史をたどってみますと、設立当初は小坂団長(当時副団長)の会社の一室をお借りして活動をしていました。
 その後団員も増え、あちこち転々と練習場を変えながら数年を過ごし、ようやく旧図書館(現在の福祉センター)の2階を練習場としてお借りすることができました。このころ高校生の私も1年くらい在団しましたが、冬場のすきま風がこたえたことを思い出します。
 昭和57年、市民の待望久しかった高山市民文化会館が完成し、練習場も併設された公民館の音楽室を利用させていただくことになりました。
ご存じのように、当時音楽室利用の予約は、1ヶ月前の月初めに早い者勝ちで争奪戦が繰り広げられていました。谷口前理事長は、10年近く毎月続けられていたわけですから、そのご苦労は大変なことであったと思います。
 それを引き継いだ私ですが、仕事でつい忘れてしまい、気が付いて文化会館へ飛んでいき、着いたときには時すでに遅し、30数番目だったり、前日の夜「明日は文化会館へ行かなくては」と考え出したら寝れなくなったり、かなり精神的にこたえました。
 その音楽室も、団員の急激な増加で収容不可能となり、また大型楽器がドアを通過できないという事態が深刻化し、いよいよ練習場の確保に四苦八苦するようになってきました。
 そんななか、定期演奏会、デンバー公式訪問の臨時練習等で、東山、松倉両中学校をたびたびお借りしておりましたが、我々の活動に松倉中学校の北野校長先生が絶大なるご理解を下さり、校内のマルティー(多目的ホール)の定期的な使用をご許可下さいました。
 その後、前田前校長先生、田口現校長先生、そして先生方皆様の暖かいお気持ちを持ちまして、現在に至っております。
 また学校行事等で利用できないときは、中山、東山両中学校にお願いするなど大変ご迷惑をおかけしながら練習をさせていただいております。
 私共は当然の事ながら、音が出る団体であり、練習は仕事が終わってから、すなわち夜である事、駐車場が相当台数分いること等々条件的に困難なことが多く、また大型楽器の保管、楽譜の保管なども点在しているため、限られた練習時間で活動していくには、団員個々に相当な負担がかかってしまっている状況です。
 将来的には、冒頭で述べた高山市民吹奏楽団の練習場をなんとか確保し、団員が心おきなく、いつでも好きなときに個人練習、パート練習ができるような環境を整え、吹奏楽で活躍した若者が、この地に留まってくれたり、また戻ってきて入団してくれるような団体に成長していきたいと思っています。

30周年記念誌より